祈り、願い、誓い(ミキティー本物生誕祭2021によせて)

これはミキさんの生誕が終わってから四日後のことだけど、花を買おう、と思った。昨年購入したガラスの細身の花びんには昨年の七夕に買って帰ったかすみ草がささったままになってカピカピになっていてせめて捨てろよと思った。大好きなスピッツのスピカが流れてきて泣きそうになって、あれ、となって、こうやってスピカで胸がいっぱいになるのはいつぶりだったんだろうか。わたしは、「割れものは手に持って運べばいいでしょう」を世界でいちばんやさしい詞だと思いつづけている。こんな心のうごきはひさしぶりだと思えることが多発して驚いてしまったけど、要因はおそらくミキさんの生誕だったように思う。

1年以上ぶりのオンラインではない対面での特典会は、ミキさんに真っ先に「宇多田みたいだった」と伝えて終了した(当のミキさんは目を見開いてすぐぺいさんにねえぺいちゃん宇多田みたいだったって!!!と叫んで報告していたので、結果的にはよかったのかもしれない)。こう感じたのは、この日はじめてミキさんひとりによって披露された「隕石に願いを」(隕石、と書いてほしと読む)のなかのメロディーに、これは宇多田だ!!とハッとするような箇所があったからだった。後日あらためてアーカイブで聴きなおしたら正直そこまで宇多田ではなかったんだけど、そのとき宇多田だ!と感じたこと、宇多田とミキさんがぴんと繋がったように思えたことを大事にしたい、と思う。
自分のなかで、このひとの音楽は抽象画みたいで、このひとのは人物画みたい、というものすごくぼんやりとしたくくりが存在していて、意味合いもほんとうは正しくないだろうけどだいたいそんなかんじの区分けがある。どちらかといえばわたしは抽象画みたいだ、と感じるような音楽が好きで、でも宇多田はめちゃくちゃ人物画。宇多田の曲は、どんな詞でもメロディーでも宇多田自身がうたっている、というふうに感じる。Beautiful Worldはわたしにとってどうしたって宇多田とシンジくんの歌だ。わたしはミキさんの音楽もそれに近いものを感じているかもしれないなと行き着いて、なんだかすっきりした。あと、わたしの勝手に思うミキさんの詞への考えかたと宇多田の歌への音楽観がなんとなく一致していて、やっぱりね、とWikipediaを読んで思ったりもした。クリエイターのかたに対して「〇〇みたい」と伝えるのは下手すると失礼にあたることだという認識はもちろんあるけど、宇多田は宇多田っていう神さまの概念みたいなものなので許してほしいと思った。そんな余談です。

会場に入って、自分の座席の上にお手紙の入った封筒が置いてあって、「本編終了後、アンコールが始まる前に開けてね♡」とシールで封がされているのを見たとき、数年前の杏果ちゃんのはじめてのソロコンサートのことを思い出した。杏果ちゃんはもうアイドルを辞めてしまったわたしのはじめてのアイドルの推しメンで、大好きな女の子だった。杏果ちゃんも、横浜アリーナの座席にお手紙を置いてくれていた。因果、という言葉はこういうときに使うんだろう。本編が終わって封筒の封を開いて中の「隕石に願いを」の歌詞を読んで、これを白鳥さんがうたっているところが見たかったと涙がでた。杏果ちゃんがいなくなってもうなにもかも終わりだと思っていたわたしを救ってくれたのはまちがいなく白鳥さんというアイドルで、もうアイドルは辞めてしまったけど、目にしているあいだ、わたしはこんなアイドルが応援したかったんだと心から思っていたし、大好きなアイドルだった。ミキさん自身は、この曲はグループでうたうつもりはないと話していたから、もしかしたらズレている感想なのかもしれないけど、わたしにとって、いちばんに好きなひとにこの詞をうたわれたら十分すぎてもう死んじゃいたいなと思うような歌詞だった。昨年の7月1日以降、わたしは純度100パーセントのさみしいという気持ちだけではたぶん泣けていなくてもうその純度で泣けることもないと思っていたから、今更さみしくて泣けて驚いた。わたしに刺さっていた針のようなものが抜けたのはきっとこのタイミングだったんだろうと振り返って思う。

ミキさんはこの日、みんなからもらったものはあまりにも多すぎて一回や一度では返すことができない、だからアイドルとして一生をかけて返していきたい、ということを話していた。もう恐ろしくてたまらなくなった「一生」という言葉をこんなにも光に満ち満ちた言葉として伝えることのできるミキさんは、正真正銘アイドルだなあと思う。ミキさんのことが好きでよかった、と思うのとおなじくらいに、アイドルを好きでよかった、アイドルを信じつづけてきてよかった、と思うような時間だった。アイドルに命を救われた人生だと本気で思っている。これは瞬間ではなく前提の話だ。どんなに痛い目を見てもその事実は変わらないし、信じることを諦めることはわたしにはすごくむずかしいことだった。その先でやっぱりアイドルを信じててよかったなあって思えることってかぎりなくしあわせなことだ。
ミキさんはもらったものを返し切ることができない、と言っていたけど、わたしたちオタクはもう十分すぎるくらいにいただいていてとても返し切ることができないのはわたしたちのほうなのだ。アイドルは与えることができるけど、オタクが与えられるものはなにひとつなく、できるとするならば、与えられたものにたいする対価を払うことだけなんだとわたしは思う。アイドルとして生きるあなたを応援する権利をください、ステージに立つあなたを見続ける許しをください、って、それに見合うことができるよう膨らみ続ける負債を返し続ける。でもそれはたぶん不幸なことなんかではなく、一生をかけて返し続けたいものがあるだれかがいること、見合いたい人がいることで、どうしようもない人生をすこしだけ強く生きていくことのできる人間がいること、どうか知っていてほしいと思う。

最後にミキさんはひとりで「青春は何度でもやり直せるなんて嘘だ」をうたってくれた。この日どうしてもききたかった曲だった。サビの最後の音を、原曲どおりではなく低い音でうたったミキさんに、南波一海さんと、アイドルとサステナビリティのお話しをしていたときのことを思い出した。その選択をするミキさんがいまのミキさんだなと思ったし、ミキさんがいまのミキさんを好きなようにわたしもいまのミキさんが好きだ。ミキさんが、これからも変わり続ける自分をなによりも愛していられますように。


OS1ゼリー

ぐりという名前です。アイドルオタクの気持ちブログ。

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