一年前の今日は稲毛海浜公園でライブがあって、気持ちよく晴れた春の日でそのとき特典会でいまの推しメンにあなた推しになりましたと伝えたのでした。
この日になにかおおきなできごとがあったとか、雷が落ちるような瞬間かあったとかそういうわけではなかったんだけど、はじめての野外ライブでほんとうにたのしそうに気持ちよさそうに元気にしていた姿がわたしというらくだの背を折る最後の藁一本だったように思います(この二本前のライブが昨年のミキさん生誕で、そこでいろいろ解きはなたれた気持ちになれたこともやっぱりおおきかった)。
推しになりました、と伝えたときに聞こえるか聞こえないかくらいのちいさな声でうれしい、とだけ呟かれて特典会がおわってしまって、当時のわたしはもしかしたらきちんと聞こえてなかったのではないか、と不安になってお手紙にもその旨書いたし直近の四人でのオンライン特典会でも伝えた。必死すぎる!!あなたが推しです、と決断すること、表明することは一種の契約とわたしは思っていて、相互理解がないと正式に成り立たないと考えているから、どうしても分かっていてもらいたかった。でも、だいぶ話せるようになった(アイドルとアイドルオタク基準)いま思い返すと、あのときの「うれしい」は大切なことを伝える際に声をひそめてお話ししてくれるときの、そのときの声色に近い「うれしい」だったような気がしていて、きっとちゃんと受け取ってくれていたんだろうなと思っています。
オンライン特典会で四人に伝えたときにはミキさんとぺいさんにえっ、今更!?みたいなかんじでたくさん笑われて、わたしは伝わっていると思ってなかったからその反応にびっくりしたんだけど、むこうにはどう見えていたんだろうか。これは前にも似たようなことを書いたんだけども、「推すとしたらこの人」と「この人推しだ」の気持ちは近いようでいて越えられない広い広いへだたりがあって、その線を越えられたこと、素直にずっとうれしいままです。
といっても、やはりアイドルを推す・推せるということはわたしにとって最大級の幸福であると同時に悩みの尽きないものでもあり、はじめはこの人を推すことで自分が澱みなくしあわせになれるのか、ということばかりを考えていたような気がするけど、いまはただ、いつかこの人のきれいな気持ちに影を落としてしまわないか、その要因になってしまわないかということばかり心配しているような気がします。
前に推していた人は波長が合っていたこともあって(応援している人にそう思わせてくれるのがとてもじょうずな人だったことももちろんあり、でも実際合っていた部分も多かったのではないかなと思っています)なんとなく安心する部分も多かったんだけど、今回はいままでの人生でも、きっとこれからの人生でも関わることのないような眩しさの人で、推すことは正直不安もおおきかったです。
誤解を恐れずに言うと、人間として合う・合わないの問題があって、ぴかぴかした推しメンとくさくさしているわたしはまあたぶん「合わない」のカテゴリに入る側で、それでも、推させてもらいますと宣言して一年経って、たった一年かもしれないけどたくさんのことを経たいまは、そういうカテゴリにとらわれるのも違っていたのかなと思ったりもする。
いつかの、頭がくらくらするくらい照明がうつくしかったライブの日に、ライブ照明への感動を特典会で話してしまったときがありました(照明は本人たちがガッツリ関与する部分ではないと思っているし、見た光景を共有できるわけではないのでふだんはできるだけ言わないようにしています)。いま思うと申し訳ない〜、と思うばかりですが、推しメンはそれにたいして照明がほんとうに眩しかった、でもその目に入った光を自分の目をとおしてフロアに飛ばした!という旨を、自分の目に映った照明の光景のことを話してくれて(気持ち、かわいすぎる)。またあるときは、わたしがスクリーンショットで上げた感動した照明を見てくれて、興奮してる理由がわかりました、と言ってくれました。
山中湖のライブでは、ステージから湖が見えてきれいだったことを教えてくれたり、富士山を背にした自分たち(がいる光景)はどうだった?と聞いてくれたりして。そのどれもが、本人はきっと思ったままを伝えてくれただけなんだろうけど、わたしはそのどれもがすごくすごくうれしくて、勝手に大切にしてしまっています。
本来、自分の目にうつるものの姿やそれを見てどんなふうにきれいに思えたのかなんてだれにもわからないけれど、それを伝えようと思ってくれたこと、わたしのそれを分かろうと思ってくれたこと、全部うれしくて、生きてきた道すじとか全部取っ払って、心のずっと深い部分で通じ合えたような気がしていました。理屈とか、自分のだれかと比較してしまうような醜い気持ちとか、そういうものが届かない場所にある「きれい」という気持ちで通じ合えたこと、ほんとうにうれしかったんです。自分の目に映った照明の感想を話してくれるアイドルにはじめて出会った。
けして侵してはならない、清浄な水辺のように思っています。
自分のドブのような思考が流れ出て行ってしまうことを(その程度で汚れるような強度でないとわかっていても)罪深く思うし、わたしはどうしても心が不健康な人間なので、すこやかでありつづけてほしい人を健康な気持ちばかりで応援できないことにずっと引け目を感じながら生きています。それでも、自分のなかでただひとつ汚れていないと思える、なにかをうつくしいと思う気持ちの部分と水路がつながっていると思えること、とても幸福なことと思います。
あと、これもきっと本人はなにも意識していないと思う(ので、勝手に大事にしてしまうこととても申し訳ないんですが)けれど、対個人とお話しする際でも、「みんなのおかげ」だと表現してくれる(わたしはそれがとても好きです)この人が「あなたのおかげ」という表現を使ってくれた二回は、二回とも、わたしがかなしみや苦しみを強く感じるようなパフォーマンスをしていた日で、そのパフォーマンスのお話しをしてくれていたときでした。
いつも、こんなにたくさんもらってばかりでなにも返せていないと思い続けているけれど、自分のなかのなにか、それはもしかしたら自分のきらいな自分でさえ、あなたの心に影を落とすのではなく、あなたの糧になれている瞬間もあるのかもしれない、生きていく道すじを豊かにできるひとつになれているのかもしれない、と信じられるときがあります。
もう何度も伝えてしまっているけど、『隕石に願いを』の、ミキさんがひとりで歌っていたときから大好きだった「花の香りや 太陽の眩しさ」というパートを授かっていると知ったとき、とてもうれしかった。
「太陽の眩しさ」はわたしにとってあなたのことで、それは照りつけるような日差しのことだけではなく、時間のゆっくり流れる昼下がりの部屋にやわらかく射しこむ光も、雲の切れ間から光が漏れる光景も、水面がきらきら反射している瞬間も、春の景色の陽光も、その全部が「太陽の眩しさ」です。そう思わせてくれてありがとう。
絶対に死なねー!と毎日となえつづけて命からがら生きながらえた先であの春を迎えられてほんとうによかったし、今日をこんな気持ちで過ごせたことしあわせでした。一年前は一年後がどうなるかなんてまったくわからなかったし、いまのわたしも来年へのお手紙なんてきっと怖くて書けないままで、だからこそ、この一年とおなじように毎日をかさねていけたらと思います。たくさんのことを見届けられますように。
今日も大好きでした!
おわり
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