歌がうまいということ(20220626 COVER GAY LIVEによせて)


「先日行われたJ-POPカバーライブで推しメンがAqua Timezの虹を歌って、それがあんまりにも素晴らしいからびっくりした」ということを書きたかっただけなのに、それを表すふさわしいことばが見つからずなにも書かず数日が経ってしまいました。ほんとうにすごかったのに。でもそういうふうに、ことばではとてもじゃないけど表しきれない気持ちばかり味わわせてくるところや、どううまく整理して言語化しても結局本人のステージで生きる姿のエネルギーはいちミリも伝えられないだろうと思わせられるところが、推しメンことスウィートマイラブこと日が紅さんの大好きなところだとつくづく思います。でも残しておきたいと思ったので書きます!

まず、二丁目の魁カミングアウトさんとJ-POPカバーの今までに関してすこしだけ触れると、記憶に残っているのは2018年3月のきまるさんの大学卒業のタイミングでおこなわれたイベント内とか、あとは2019年のぺいさん生誕内のカラオケという設定で歌われたもの、2019年-2020年カウントダウンライブ内での紅白曲カバー、それを経て2020年2月の(いまは亡き)ファンクラブイベントが、はじめてきちんとしたイベントとしてカバーライブだったんでないでしょうか。きまるさんの3月9日がいまだにわすれられないくらい凄まじくよかった、とかそういう例外はありつつも、わたしとしては「企画もの」の色が強いというか、その域を出ないなという認識がありました。
そんな認識もあって、いまの体制になってからはじめてのカバーライブ(昨年の9月かな)はそれこそ「企画もの」のライブとしてたのしむ気持ちで臨んだのですが、これがとんでもなくよかった。このときはカバー曲を5曲(各メンバー+全員)歌ってから通常ライブという構成で、その通常ライブも含め、体感としては2021年ベストと言っても差し支えないのではないのかなというくらい、ほんとうにいいライブでした。別の記事でもすこし書いたのですが、沖縄でのカバーライブも素晴らしかったです。なんでいきなりこんなによくなったのかな、と考えてもわたしはいまいち分かりきっていないのですが、なんというか、気の持ちようとしか言えない気がします。自分の歌う詞を自分の本気で伝えたいこととして、そういう気持ちで歌う気持ちというか。本人たちにも一度聞いてみたいです。

今回のカバーについてを整理して文字にして残しておきたいなと思った理由のひとつに、「自分がAqua Timezの虹にいい印象をもっていない人間だった」というのがあります。正確に言うと、その曲に悪い思い出があるとか、そのアーティストさんがいやとかではなく、その時代の流行したドラマの主題歌や、そのときの流行りうたが自分のなかで「いやだったこと」の象徴として強くこびりついているのです。
わたしの知り合いとかお友達とか、文章を読んでくれている人には分かると思いますが、わたしはものすごくコンプレックスや劣等感の強い人間で、そのほとんどが学生時代に起因するものです。当時のクラスカーストの上位の人たちの文化(と勝手に思っていたもの、も含めて)は、近寄ってはいけないものだと思ったまま、その感覚が自分のなかに煮こごりとなって残り、消化も解決もできないまま年齢を重ねていまに至ります。おなじ時期をおなじように息をひそめて生きてきた人には、この感覚わかってもらえるのではと思っています。

なので、推しメンがAqua Timezさんの虹を、と口にした瞬間「ウッ」となりました。正直言うと前回カバーライブのキセキのタイトルコールのときにも「ウッ」となっていました。すみません(懺悔)。でも、前回いちばんに感動して一生わすれないと思ったのも、今回こんなつらつらと書いてしまいたくなるくらいに衝撃をうけたのも、その「ウッ」となった二曲です。それがどんなにすごいことか。
当時はドラマの主題歌として耳にしていた記憶が強いので、きっとフルではこの曲を聴いたことがなかったんだと思いますが、はじめて二番の詞を聴くことができたのがこの場でよかった、としみじみ思います。

別々の空を持って生まれた 記憶を映し出す空 
君には君の物語があり 僕の知らない涙がある
もしかしたら僕が笑う頃に 君は泣いてたのかもしれない

似たような喜びはあるけれど 同じ悲しみはきっとない


「約束」で未来を縁取り コトバで飾り付けをする

君は確かな明日を きっと 誰より 欲しがってた


巡る季節のひとつのように

悲しい時は 悲しいままに

幸せになることを 急がないで

大丈夫だよ ここにいるから

大丈夫だよ どこにもいかない

また走り出す時は 君といっしょ


一番はまあ、「ウッ」の感覚がありながらも、日が紅さんの歌や歌う姿はほんとうにいいなあ、眩しいなあ、歌う前に話してくれたご家族との思い出話が愛おしすぎたのでほんまに大切だなあ、と思いながら聴いていたのですが、二番はちょっと、ここまで日がちに何度も何度も何度も救われてきた自分を思い出してしまうというか、図々しく言えば、日がちのわたしたちへの気持ちそのままみたいだという気持ちでほろほろ泣いてしまった。

これはわたしの主観の、わたしの視点でしかない話になってしまいますが、二丁目の魁カミングアウトを前体制から応援していて、推していたメンバーが辞めてしまって、それでもいまの体制を応援しよう、と決めた人たちにはその人たちしかわからない苦しみがあって、同時に、そうであったから味わえたよろこびも数多くあったと感じています。(この箇所を表ではあんまり書きたくなくて、せめてと思いブログに書くことにしたのですが)日が紅さんをいま特別に好きでいる人には前体制での推しを失った人がたくさんいて、その当事者として、日がちは表に出すことはなくてもいつもその苦しみや、苦しみがあるうえでのよろこびに寄り添ってくれていて、いまもたくさん慮ってくれているんだろうということを端々から感じています。自分の行動や言動が人にどんな影響を及ぼしてしまうかを人一倍気にして心配してしまう人と思っているので、直接話すことはないのかもしれないけど。

日が紅さんはライブ後の特典会で、その日ライブで頑張ったことやこうしようと思ってパフォーマンスをした、というお話しをしてくれることがよくあって、教えてくれる内容はその日かぎり、その日だけの意識であることが多いように感じています。それが6月に入ってからは、それぞれ別の特典会で「詞を意識して」「詞に沿って」とお話しをしてくれたことが何度かあり、続けては珍しいな、どうしてかな、と考えたときに、6月26日にこのカバーライブがあるから、そのライブで歌う曲の詞をより届けたいから、そのための意識なのかな、と思い至りとても愛おしく思いました。
これはあくまで憶測なので、真偽のほどはわかりませんが、それでもこの人は自分の思い出深い曲だから、という理由以上にこの詞をひとりひとりに届けようと決めていたんだろうというのは、この日のステージを見ていればすぐに分かりました。歌のことばひとつひとつをしっかりと聴き取りやすく歌えるのは、いままで培ってきた舞台上の人間としての意識の高さでもあるだろうし、二丁目の魁カミングアウトとして積み重ねてきた「歌を届けたい」という気持ちのあらわれでもあるんだろうなと、いま見せてくれているすべてにありがとうと叫びたい気持ちになってしまった。

二番がおわったあとかな、譜面台を越えてステージの前に歩み出て、微笑みながら歌ってくれていた姿に、いつかのラジオ収録を模した公演で、ガラスのかわりとして貼られていたステージと客席を仕切るように貼られていたサランラップを突き破って手を伸ばしてくれた、カエルのうたのミキさんのことを思い出していました。わたしのなかでずっとわすれられない、「呪いはいつか解かれること」の象徴の光景。

コンプレックスや劣等感、人を羨み妬み憎むような負の感情ってとてもパワーの強いもので、どんなにたのしくてうれしくてしあわせな気持ちも呑み込まれてなくなってしまうように感じることって無数にあるし、二丁魁の歌のなかでもそういう痛み苦しみをたくさん歌ってくれていると思います。だからこそ、しぶとく根を張ってきたコンプレックスによる先入観とか、「ウッ」という壁をぶち破って、詞そのものを届けてくれた日が紅さんの歌はほんとうにすばらしいもので、すごいことで、でもそれをできちゃうのが日が紅さんという人なんだなあ。

歌のうまさって、技量とか声量とか、人それぞれ違った要素があって基準があると思います。わたしは自分が歌を歌わない人間で、歌をよく聴く人間だからそう思うのかもしれないけど、どれだけ詞を届けられるか、どれだけそのなかにある気持ちをこちらに伝えられるのか、どれだけ君を「君」に、僕を「僕」に感じさせてしまえるのかが、がわたしの思う「歌のうまい」の基準です。だからわたしのなかで世界でいちばん歌のうまい人って実はカバーライブにおける日が紅さんで、きっといつか、「カバーライブにおける」も外してそう思えるんじゃないかなとか、そう信じてしまえるような時間でした。わたしの好きになった人は最高だなあ!



おしまい

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