供養とは(manaminorisa Last Tour 2023 『Epilogue』千葉公演によせて)


いつか、V6のファンの方が「この人たちは解散以降のわれわれが悪霊にならないよう心を尽くしてくれている」という旨を呟かれていたことをずっと忘れられずにいて、好きなアイドルを見送るアイドルファンのほんとうの成仏とはなんなんだろうか、ということを考えるたびいつもわたしの頭に浮かんでくる言葉なのである。

(事実、外野からの見え方でしかないのだけれど、V6の解散までの道のりは、すごく羨ましい、と思ってしまうような、これ以上ないくらい愛のある丁寧な紡がれ方だったように見えていた)


終わりを迎えるアイドルを見送るアイドルファンが悪霊にならない条件とはいったいなんなんだろうか。突然に終わりがやってくること、終わりまでに十分な時間が用意されていること、そのどちらが幸せでどちらが不幸せなのか、わたしは一生わからないままなんだろう。

わたし自身の経験としては、いままでわたしが命を燃やして追いかけてきた(いる)と言えるアイドルの3人のうち2人はアイドルを辞めていて、1人は卒業の発表があってから1週間後に卒業ライブがあり、もう1人はコロナ禍が訪れしばらくしてからその発表があり、その翌々日くらいにアイドルを辞めた。様々な事情があってのうえだけれど、卒業ライブのようなものがなされることはなかった。わたしはそのどちらのタイミングでも悪霊に成り下がって、そのままみっともなく生きながらえている。


お葬式は残された人たちの整理のためにあるもの、という言説を耳にすることがある。

アイドルの卒業ライブにもそれに近い意味合いがあると思っていて(もちろん、辞めていくアイドルや残されていくアイドル張本人の気持ちがいちばんにあるものだから、まったく別ものあることも頭ではよく分かっているんだけど)、身勝手なアイドルファンとしては、自分がひとつの区切りをつけるための儀式として、どうかあってくれと願ってしまう。前述の2人目の推しメンは最後のそれがなかったから、こんなにもなにひとつ成仏ができなかったんだといまだに恨みがましく思ってしまう。

だからわたしは卒業ライブをすることのできるアイドルを、それを見届けることのできるファンをどうしても羨ましいと思ってしまうし、終わりまでの時間を十分に確保してくれているグループなんて、嫉妬の感情がぐるぐる渦巻いてしまって、そのアイドルもファンもうまく見られなくなってしまうこともある。

でも、1人目の推しは卒業ライブがあったけど、わたしは結局それを卒業ライブだなんて全く思えなかったし、卒業までに(わたしから見たら)十分な期間が与えられて、思い出を作る機会がたくさん与えられている人たちは、真綿で首を絞められ続けているような、そんな苦しみがあるんだろう。周りの友だちやSNSやフロアを目にしていて痛いほど思う。

成仏なんてないのかもしれない。深く強く好きでいればいるほど。


二丁魁とまみりさんの出会いは2021年4月の終わりごろに横浜であった対バンで、後にそれは高橋名人がイベンターのイベントだったと知る。

この頃にはすこし緩みかけていたコロナ禍の勢いが再度盛り返してきていて、中止や延期になるイベントもぽつぽつと出てきていた。わたしもこの日のお昼の早い時間と、夕方にはもともと予定があったのだけど、このあと予定されているイベントも全て中止になってしまうのかもしれない、という恐怖があり、開演ギリギリ到着かつ、二番手の二丁魁を見たらすぐに飛び出さなければいけないってカツカツさでもこれに無理やり行くことを選んだこと、よく覚えている。実際、5月1日から予定されていた二丁魁の周年イベントはすべて中止になってしまっていて、このイベントもなにかがすこしズレていたらなくなっていたんだろう。

このイベントがなくなっていたら、たぶんこの後に新木場COASTであったGIG TAKAHASHIに二丁魁が代打で出演することもなかったんではないだろうか。もしそうだとしたら、それ以降のGIG TAKAHASHIへの出演はなかった、もしくはもっと時間がかかったんじゃないかと思う。二丁魁とまみりさんの出会いも、ミキさんがリハーサルでまみりさんのステージを見て、これでもかってくらい感動することも起こりえなかったのではと思うと運命って奇妙だ。


ミキさんは振付師としてもアイドルとしても無数のアイドルと関わる機会があって、でもミキさんってオタク気質のまったくない人(と勝手に感じている)で振り付けで関わったアイドル以外に特別に肩入れすることってわたしの見てきたなかではほんとになくて、だからまみりさんのステージを見たときの衝撃って相当なものだったんだと思う。いち共演者というだけでなく、いちファンとして本気でリスペクトしているのが伝わってきていた。まみりさんに出会ったあとに、スタンドマイクを使う曲が2曲も出てきたのは正直ちょっとだけおもしろかった。

そしてその矢印はミキさんからだけでなく、まみりさんからも向けられるようになっていた。共演者のアイドルの人にこんなに素敵だ、と言ってもらえることなんてなくてミキティーさんの言葉でやってきてよかったって思えた、ってO-Crestのステージの上で涙する三人の姿を鮮明に覚えている。まみりさんほどの長年やってきた、たしかな実力のある人たちが、だれが見ても目を奪われてしまうようなパフォーマンスのできる人たちが共演者に讃えられないなんてことってありえないだろうと思ってしまうんだけれど、でも、きっとほんとうにそうだったからこそのあの告白だったんだろう。


4月1日に解散を控えたまみりさんのラストツアーの初日にお呼ばれされた二丁魁のステージを、わたしは「これを今このときのまみりさんのファンの方が見たらどう感じられるのだろうか」ということをずっと頭に置きながら見ていた。もちろん、完全にあずかり知ることなどできないのだけれど。

そのうえで、なんて心あるステージなのかと泣けてしまったこと。このときのステージから伝わる熱とか、きこえてくる詞や表情ひとつひとつにもしかしたら救われる人がいるんじゃないかと信じられたこと。このステージそのものや、あとから思い返したこのステージの記憶が、だれかの成仏のひとつの助けになるんじゃないかと信じられたこと。ものすごいことだなと未だに考えている。


↑というのをこの日はどうしてもミキさんに伝えたくて特典会でおおまかにお伝えしたところ、それを横で聞いてくれていた日がち(※二丁魁の特典会は1対1の個別式ではなく、メンバー4対ファン1の形式で行われています。なので特典会で話す内容は大体メンバー全員に筒抜けになる)が、「(まみりさんのファンの方々に向けても勿論だけど)まみりさんに向けて歌ったんだよ」ということをお話ししてくれた。

この日に目にした光景がどうしてあんなに綺麗に思えたのか、日がちの瞬間の表情ひとつでなんであんなに泣きそうになってしまったのか、だからこの人を推しているんだよなあ、と思えたこととか、すべての解がそこにあるような気がした。いちばんに伝えようと思ってくれたことがこのことだったことも含めて、あなたのファンでよかったと心から思うし、あなたたちのファンでよかった。


(ここからなんとなく感想を書きますが、パフォーマンスがどうとかいう日ではなかったので、概念的な感想しかないです!)


人を好きになれる君は何度でもやり直せるんだ

二丁魁で感動させられても涙が出ることってほぼないタイプの人間なんだけど、この日は出てきたときの空気からすこし泣いてしまいそうになっていた。バイアスなのかもしれないけれど、こういうときって歌う前から、踊る前から空気が違って見える。神聖な、厳かな空気。ひんやりしてすこし痛いけどいやじゃないかんじ。

この日はずっと、日がち(※推しメンの日が紅さんのことです)が笑っていないときでもほんとうに穏やかでやさしいほほえみをたたえているような、そんなふうに見えていた。人好きのイントロで真ん中に踊り出た瞬間にいちばんにそれを感じて、もっと泣きそうになってしまった。わたしはこういう日がちを見ると、いつも記憶のなかの海に向かって立つ白亜のマリア様の像を思い出す。たぶんいちばん大好きな日がちのたたずまい。


前の体制の人好きって、わたしは正直どこの詞をフックと捉えたらいいのかわからなくて、なんとなくぼんやり聴いていた。でもいまは、

忘れてしまうのなら
消えてしまうものなら
痛いままでいい ここに残って

わたしの人好きの核はここなんだと揺るぎなく思う。この日のような日は特に。


元メンバーのきまるさんがまだお休みをしていたときに開催された、新宿BLAZEの12月のぺいさんの生誕でのこの曲で三人が泣いているように見えて、ああたぶんもう四人でのステージは見られないんだろうとこのときはじめて漠然と思った。その数日後にきまるさんの脱退が発表された。わたしにとっての四人の最後のライブは、きまるさんがお休みになる直前の西川口でも、その後のアイソでも中野サンプラザのライブでもなく、この日の人好きだったんだなと、なんだかあらためて思い返してしまった。わたしにとってお別れの象徴の曲。


誰かを好きになれる それだけで
何度だって立ち上がれるんだ

この曲のおわりのフレーズは、前体制では自分に言い聞かせるような印象だったけれど、いまの体制になって日がちがこのパートを担うことになって、この人は目の前の誰かの手を引くようにこの詞を歌えるんだと、そういう曲になったんだと(超ニュアンスですが)ミキさんは教えてくれた。この日、特別にそう思えたことも、「これから誰かを好きになれる」誰かに向けるというより「いつか誰かを好きになれた」目の前の人たちに向けてこの詞を届けたいと思って歌っていたんじゃないかと、そう思えたことは気のせいではないと思う。


ノスタルジスター

人好きが終わってノスタルジスターのイントロが流れるくらいまでのあいだで、今日はなんだかステージがいちだんと眩しいのに見やすくて、フロアが(いい意味で)暗闇に沈んで見える日だなと、でも目がくらむかんじではなくて、好きな光のかんじでいいな、というようなことを思っていた。うしろのほうから見ていたけれど、フロアの人の群れがみんな光景になって、ステージしか見えないような感覚。これが没入するってことなんだろう。曲から曲に移行するまでのほんのわずかな空気にまで泣きそうになってしまう日だった。

わかりやすく「記憶」の曲だからきっと歌われるんだろうと思っていて(ふるさと、というワードもまみりさんに縁深いものだと思うし)、実際歌われて、でもなんかそういう予想の範疇を超えるノスタルジスターで、聴けてよかった。わたしは二丁魁四人のユニゾンが大好きなんだけれど、この日、ノスタルジスターのユニゾンがいちばん好きだった。


綺麗故に 消える美しさよ
あの時に戻って 書きとめてみたい君を

かつて推しメンが歌っていて、この詞を歌う姿が好きで、いちばんぴったりだと思うから大切に大好きでいた詞を推しメンがいなくなったいまも大切に思ってしまうこと、こういうのを後ろ髪を引かれるっていうんだろうか。でもずっと大好きな詞。

綺麗故に消える美しさよ、で踊るまみりさんの衣装のチュールが空を舞うさまが脳裏に浮かんだ。


この一瞬を永遠に残すことはできない
だから僕を誰かに残さないといけない

この一瞬を永遠に残すことはできない、がずっとわたしにとってのノスタルジスターの核だ。

いつもこの詞を頭に置きながら目の前の光景を見るし、もっと言えば目にするライブすべてが、一瞬一瞬すべてがそう。

そしてこの日は、ここで一曲前に歌われた人好きの、「忘れてしまうのなら消えてしまうものなら痛いままでいいここに残って」が連想された(ついでにスピッツの猫になりたいという曲の、「消えないようにキズつけてあげるよ」という大好きなフレーズも)。

前述の項で、終わりまでに十分な時間が残されていることは、真綿で首を絞められ続けているようなものなのかもしれない、というようなことを書いたけれど、苦しみがあるからこそたしかにそこにあったことを思い出せるのかもしれないな、とも思う。

(↑ここ、書き終わったあとに我愛羅か?となりました)


振りではなく、気持ちそのままで歌うようになったところは「この一瞬を~」のところだったかな、ラスサビからだったかな。どちらか覚えていられていないけれど、この日の気持ちそのものだと思えて大好きでした。

日がちの上ハモがいつも以上にやさしく心強くきこえた。


(1+1)×0=0

だいぶ長らくやっていなかった曲だけれど、この日は披露されるだろうという確信めいた予感があった。

この項の冒頭に「まみりさんのファンがこのライブを見てどう感じるのかを思いながら見た」というようなことを書いたけれど、いちばんそれが重く鋭く迫ってきたのはこの曲だったのかもしれない。


悲しみはたった一つ 最後に0を掛けて

全てがなくなる“掛け算”のようだから

どこかで生きているのに もう会えない人は

死んでしまったのと全然違う

そして それは 時に同じで

どこかで生きているのに もう会えない人は

死んでしまったのと全然違う

そして それは 時に同じだ

アイドルにあまりにも人生を救われすぎてしまったから、わたしは歌の詞を読むときにはもうそれにアイドルのことしか当てはめられなくなってしまっていて、それはこの曲も例外ではなくて、ほんとうにそうだ、と思う。ほんとうにそうだと思いすぎて、わたしのような人がほんとうにそうだと思ってしまうということは、まで思い至り涙が出た。

レスとか目線とか対応とか、どれだけ積んだとか、どれだけ通ったとかどれが私信で誰が全通とか推されとか干されとかどれだけ大切でどれだけ好きかとか報われてほしい売れてほしいとか、忘れたくないとか、だれかのオタク人生で、どんなにくだらないとしてもたしかにその時間は人生の意味のほとんどを占めていたものたちも、納得できない終わりを迎えてしまった時点で、その瞬間にすべてが消えてなくなる。価値がなくなるとか、意味がなくなるとかじゃなくて、ゼロになる。ゼロになってしまった。と、わたしは今でも思う。推しメンがいなくなってもグループは残って、その先であたらしい推しメンを見つけることができた今でさえ。

二丁魁の詞のなかで、明確に「死」の意味合いで、「死」の漢字がつかわれるのはこの曲しかなくて、ミキさんがそうすることを選んだことの意味を思う。

もしかしたらこの日この場で、この詞が輪郭をもってきこえて、心を痛める人がいたのかもしれないと思う。でも同時に、ほんとうにそうだなあ、ほんとうにそういう気持ちだなあと思うことで割り切れない気持ちのどこかが供養される人だっているんじゃないかと思う。供養にはいろんなかたちがあるから。


でもね誰かが僕に生きてほしいと願ったときに

はじめて割り切れない気持ちを知るんだろう


BAKADEMO AHODEMO

(1+1)×0=0でグチャグチャにかき乱された気持ちが、イントロからサビにかけて慣らされるようにおだやかになっていく。照明もここでだんだんと暖色になっていったように記憶している。全然記憶違いかもしれない。この曲は、曲と曲の雰囲気の架け橋としてほんとうに優秀な曲だと思う。

この曲は過去にツアーでこの会場で初披露されていて、だからこの日ここで聴けてうれしかったな。初披露の日、もっと成長するから見ていてくださいと言ってくれた日がちのことを、それがほんとうにうれしいと思ったことをいつだって思いだす。

子どもと大人のあいだのまんなかの葛藤を歌う曲で、サビでおおきく手を振るような振り付けは、これまでの自分にばいばい、ってお別れするように手を振っているのかなあと勝手に思っていて、ラスサビで片手を真っすぐに上げて三回振るところなんかはいつも力を込めてめいっぱい振ってしまって今日もそうだったなあ。


隕石に願いを

この日の会場の柏PALOOZAは、天井に円形の鉄骨が走っているかんじや機材のかんじが、宇宙船のように見えてロマンチックな気持ちになってしまいがちな大好きな会場なんだけれど、この曲のイントロでゆっくりとミラーボールが回りはじめて、光の粒が星屑みたいに見えたこと、綺麗で忘れられない。

ほかの会場でも、ミラーボールの光がフロアに散って星空みたいだ!ってグとなることはこれまでに何度もあったけれど、「宇宙船みたい」って思ったことのある会場はたぶんここくらいで、そのなかに星が広がっていくことが特別に思えたこと、きっとわかってもらえると思う。

そして、宇宙船みたい、ってなると綺麗ってだけじゃなくて、一気にこの場所が外界から隔離されたような、シェルターの中にいるみたいなそんな気持ち。孤独だし、夢みたいだった。


これからもずっと、ってお互いがお互いを思って祈るように歌うこの曲を、いつも光のように思うけれど、この日は思わずウッとなってしまった。ファイナルファンタジーではゾンビ状態になったキャラに回復魔法をかけると逆にダメージを受けてしまうのだけど、そういうかんじ。「これから」の時間が残されていないなかだと、こんな張り裂けるような気持ちになってしまうのか、と鉛を飲んだような気持ちになってしまった。これまでの全部を忘れない、って曲でもあるんだけど、また作ろうね、って〆られる曲だから。

この曲の日がちの所作が、歌声ぜんぶが大好きだなあと何度でも思う。「そっと教えてよ」のところ、ほんとうにほんとうに素敵だった。いつだって身じろぎひとつできない礼拝堂にいるような気持ちでいる。


耳をすませば(Short ver.

セトリを見ると、この日はアゲてく曲を入れなくても成立したのではないかな、と思うけど、やっぱり耳すまは入れねば、というかんじなのかな、と思いつつ、声は出せなくてもお互いに叫び合うような、そんなぶつかり合いこそアイドルのライブだとも思うので、このショートサイズの耳すまに真髄がギュッと詰まってるかんじで超かっこよかったな。

(あと、終わってから考えると、この日カバーしたかかとを鳴らしての振り付けにも合わせた選曲だったのかな?とも思いました)


青春は何度でもやり直せるなんて嘘だ

まみりさんがカバーしてくださる曲は先にこの曲だという発表がされていて、自分たちのセトリに入れるパターンなのか入れないパターンなのか、となんとなく考えていたけれど、ここに入ったことでこの曲で〆てまみりさんに繋ぐんだな、というのを察知する。

昨年の冬に平等院鳳凰堂に行った際に、堂内のミュージアムで上映されていたビデオのなかでの「命が尽きるとき、最も会いたい人の姿が菩薩となってあらわれ歌い踊る」というような説明を耳にしたとき、青春のラストの、あの頃僕は誰かの~でこちらに歩いてくるところのことじゃん!!とかなりハッとしました。最後の最後でフロアみんながステージに立つ人に捧げるのは、極楽浄土で蓮の花が咲き乱れるようだなあ、ということも。

超絶個人的な解釈ですが、わたしはわたしのなかでこうやってハッとしたことを大切にしていて、この日は特にそれを思ってしまうような光景でした。何度見てもうつくしく思う。


あと、いつどんなところで見ていても、青春が来たらとたんに日がちとの回線が繋がるようにいつも思えていて、今日もそうで、たとえ幻覚だとしても大切ないちばんいい曲でそう思えること、うれしいなあと思っています。青春がいちばんええ!



いまの二丁目さんのステージを見て、「戻ってきた」と思えていたく感動する日がこれまでにも一度か二度あって、この日もそれだった。

いまが欠けているとは一切思わない。一度も思ったことはない。前の体制といまの体制は同じ文脈の流れにいても、まったく違うものだから。それなのになにが「戻ってきて」いると感じているのかとこの日が終わってから考えていたけれど、たぶん、白鳥さんがいなくなって死んだそれまでの自分なんだろう。

まみりさんのファンの気持ちになってライブを見ていた、というのも嘘偽りない気持ちだけど、狭量な自分は完全にだれかの気持ちになることなどほんとうの意味ではできやしないだろう。あのライブで魂を慰められた気持ちで泣いていたのは、もう死んでしまった自分やあのときの時間に置いてけぼりになった自分や、「もし卒業までの期間が与えられていたら」「もしラストライブがあったとしたら」のifの自分だったんだと後になって思う。

あのときにはまだ出会えていなかった日がちに、あのときの時間がそのまま進んでいたとしたら一生出会えなかったかもしれない日がちに、あのとき切り離された時間に取り残されてうずくまっている自分の魂が慰められて、すこしだけ供養が叶ったんだと思えていて、奇跡のような時間だったのかもしれないなあ、と思う。



そうして二丁魁の出番が終了し、このまま二丁魁のまみりさんカバーに行くのかな?と思っていたら、一旦捌けます!ということですこしの暗転。すぐにまみりさんが登場。すこしだけMCがあってから、そのまままみりさんのカバーへと進んでいく。


青春は何度でもやり直せるなんて嘘だ(まなみのりさカバー)


これまでにも何度か対バンでほかの人に二丁魁の曲がカバーされているのを耳にしたことはあるけれど、こんなに「歌唱」に特化してカバーしていただいたことはいまだかつてなかったんではないだろうか。

「聴き惚れる」とはこういうことかと思う。あのうつくしさを言葉にしようと思うのはまったくもって野暮でしかないのだけれど、まみりさんたちの鈴の鳴るような歌声で歌われる青春、ほんとうにほんとうに夢のような時間だった……。きれいでうれしくて思わずまた涙が出てしまったけど、きっとミキさんがいちばんうれしかっただろうな。

原曲はAメロBメロからサビにかけてどんどん音程が高くなっていくんだけど(音楽的知識がないため雑魚すぎる説明失礼します)、まみりさんはAメロBメロを高く、サビをオクターブ下げて歌っていた。女性のキーで原曲どおりに歌うにはAメロBメロは低すぎるし、キーを上げて歌おうとするとサビが高すぎて歌えなくなってしまう。普段あまり意識することはないんだけれど、男性キーで歌うため作られた曲なんだなと気づかされる。まみりさんのカバーは女性ボーカルとしてはベスト采配のように思えるし、高い⇒低いで普通だったら不自然になってしまいそうなところを違和感なく歌いきってしまうのは、実力だな~としみじみする。まみりさん現場はクラップ文化だから、まみりさんが手拍子を煽って普段入らないところに手拍子が入ると、グッと「まみりさんの曲」になって爽やかで明るい印象になって、それがめちゃくちゃ好きだった!


まみりさんが捌け少しだけ暗転があり、再度二丁魁4人が登場する。

登場した瞬間に息を呑んだ。日がちが先ほどは下ろしていた前髪をガッと上げて(というか真ん中分けでかな)セットし直していて、この人のこういうところ、と大好きで大好きで大好きで大好きで崩れ落ちそうになってしまった……。

自分たちがパフォーマンスを終えて、まみりさんがパフォーマンスをしているわずかな時間で髪を上げ直したのは、もちろんただ単純に崩れていたのを直すという意味合いもあっただろうけど、まみりさんへの敬意としての、気合い入れとしての、決意としてのセットなんだろうと勝手に感じていた(そしてその予感はカバー曲の歌い出しで完全に繋がることになる)。


わたしたちがカバーさせていただくのはかかとを鳴らしてです、とミキさんがタイトルコールをすると、ちいさく歓声が上がる。そして、この日のために振りをつけてきました、と。


3人みたいにあんな綺麗に踊れないし、って笑いながら言っていたのもほんとうの気持ちだろうけど、それ以上に、言葉だけではつたえきれない思いをこのステージに全部乗せたい、乗せよう、届けようとそういう気持ちだったのではないのかなと勝手に思う。ミキさんだけができる返し方で、わたしが今まで見てきた大好きな二丁目の魁カミングアウトの姿そのもの。


かかとを鳴らして(二丁目の魁カミングアウトカバー)

かかとを鳴らしては、わたしのなかでは一曲を通して歌われる未練や、どうしても捨て置けないものを最後のさいごで断ち切る・がんじがらめの鎧を脱ぎ捨てる、それがアウトロの一音めで一気に解き放たれるカタルシスのうつくしさの曲で、わたしもはじめて目にした日から大好きな曲なんだけれど、先日のGIG TAKAHASHIツアーで、栞と続けて歌われたときにラストの「もう振り返らないよ」でグッと苦しくなってしまったことを思う。

この曲の詞はまみりさんのおしまいとはもちろん文脈は繋がってはいないものかもしれないけど、好きな人が歌う言葉なんて勝手に大切にしてしまうものだし、今のような時期は特に、詞や踊りすべてが意味を持ってしまうだろうから。

(あと、これは完全に想像だけど、解散発表の前はこの詞の主人公ってまみりさんに置き換えてきいていた人が多いのではないかな、と思うけど、解散発表後は自分と重ね合わせてしまう人が多いんじゃないかな、そういう反転の差異に勝手に苦しくなってしまったりした)

だから、二丁魁のカバーしたかかとを鳴らしてが、「もう会えなくたっていい」「もう振り返らないよ」って言いながらもずっとずっと未練とか思い出を抱えていくようなかかとを鳴らしてに見えたことに、わたしは超勝手に救われてしまった。


まみりさんたち自身のかかとを鳴らしては、ラストの「もう振り返らないよ この空へかかとを鳴らして」と、そこからアウトロに入る瞬間にいちばんのカタルシス、感情のピークを迎えるように見えていてそれをとてもうつくしく思うのだけど、二丁魁のカバーは「季節が巡ったらどこかでまた会えますように」からセリフ、そして「もう会えなくたっていい」にかけてが感情のピークであったように見えた。

まみりさんたちのパフォーマンスと比べると、めちゃくちゃ泥臭いステージだったと思う。

でも、筆さんから強く強く放たれたセリフが、不可逆の別れに抗う燃えるような祈りだと思えたこと、そこの詞や詞に寄せる思いをあの場あの瞬間にいちばん大事にしていると思わせられるところがわたしの大好きでずっと信じてきたアイドルの姿だと思った。そう思えてうれしかった!

カバーなんだけれど、カバーというよりは返し歌のように見えてそこがほんとうに大好きだったな。


二丁魁がまみりさんに宛ててパフォーマンスをすることは、もちろん本人たちから本人たちに向けての気持ちなんだけど、「ファンの代弁としてまみりさんに気持ちを届ける」という意味合いも含まれていたと勝手に感じていて、だからこそ二丁魁のかかとを鳴らしてがこういうふうに見えたことに、救われる誰かがいるんじゃないかと思えたんだよなあ。

ステージの上の人たちに言葉を届けよう、気持ちが伝わってほしい、と思ううえで、ファンとはなんて無力なんだろうかと思わされることがわたしはすごくすごく多いから、同じステージの上に立つ人が届けてほしい気持ちを届けてくれたことにもありがとうと思えた。自分の好きな人たちにたいしてこんな餞を捧げてくれる人たちがいることに、魂を慰められる人がきっといるんじゃないかと信じたい。


はじめにミキさんが真ん中にいてかかとを鳴らすようなモーションをして、そこからミキさんが(たぶん)一歩横に動いて日がちが歌いだしはじめるの、ゾクゾクしちゃったよ!あそこで一気に空気を持っていってる感覚があったし、花が開くさまが目に見えるようだった。

特典会で、本番がいちばんうまくできたんだよ!ってうれしそうに教えてくれたけれど、歌いだしが頭っから、ほんとうに頭の一音から気持ちで満ち満ちていたのも、タイミングのドンピシャさも、完璧主義の日がちは限られた時間のなかで擦り切れるほど音源をきいて練習したんじゃないかなと思うと泣きそうになってしまった~。

振り付けはああミキさんだなあと思うような、二丁魁のエッセンスを感じるような振り付けが多かったけれど、サビの「かかと鳴らして」の「て」の瞬間に手をさし出すような振りはなんだか新鮮に思えた!

途中、ファインダーを作る振り付けがあって、そこの瞬間の日がちの表情が、なんかも~~~とてもじゃないけど言葉にできなくて、でもわたしはこの人を好きになってよかったなあと思わせられるような、言葉にしてしまうと陳腐にしかならなくて歯がゆいけど決意だとか魂が秘められた強くてやさしいほほえみで、この日忘れられない忘れたくない瞬間がたくさんあったけれど、わたしのいちばんのハイライトはここです。

「愛をくれた分 私は脆くなった」も「愛をくれた分 私は強くなった」も絶対にミキさんだと思っていたから、ミキさんでよかった。カバーをするとか、そういう想像をする前からここの詞はわたしにとってミキさんのことのように思えていたから。

ここ、歌割りはもちろんなんだけれど「愛をくれた分 私は脆くなった」も「愛をくれた分 私は強くなった」もおなじくらい苦しそうに歌っているように見えたのが、あまりにもミキさんという人すぎて大好きだったな。

いいカバーだった!!


カバーパフォーマンスが終了して、本編のまみりさんのステージがはじまる。

いち外野からの感想はあまりにも蛇足になってしまうと思うので、気持ちの感想しか書けませんが、栞、という曲はものすごくて、ものすごすぎて、言葉を選ばなければしんどい、がいちばんはじめに来てしまう感情かもしれない。

まみりさんたち自身が終わりに寄せて書いたというこの栞という曲を、わたしは先日のGIG TAKAHASHIツアーの広島公演ではじめて目にしたけれど、しんどい、とどうしても思ってしまった。いつかのTIFで、解散直前のバニビが二コラという曲を歌っているのときいてぼろぼろ泣いてしまったときのこととかを思い出したりもしていた。ファンの方はどんなふうに思っているのだろう、とすこしだけパブサをしてしまったけれど、ニュアンスですが、栞が来たら床の木目を数えるようにしている、とツイートされている方を見つけて、ああ……となってしまった。言葉にならない。もしわたしだったら、と考えてしまうけれど、わたしもたぶん逃げたくなってしまうだろうし、視界を自分でブラしたり耳を遠くしたりしてしまうかもしれない、と思うけど、でもラストツアーの姿なんて死んでも目に焼き付けなきゃと思うだろうし、苦しい!もちろん、苦しいだけの曲ではけしてないんだけれど。こんなに心を揺り動かされることってほんとうにすごいことなんだ。


主語がおおきくて申し訳ないんですが、アイドルのファンって未完成さ、それゆえに魂を削る姿にどうしても惹かれてしまう、みたいな習性がたぶんどんな人にでもすこしずつはあって、「完成」という二文字が頭に浮かぶようなうつくしいまみりさんのパフォーマンスを見ていると、アイドルとして、アイドルのファンに向けてステージを見せることって苦しい部分もあったんじゃないかと勝手に想像してしまう。完成されているがゆえに。

アクターズスクールとか、しっかりとした出身のアイドルの子のパフォーマンスを見ていると、スクールだなあ、と思ってしまうことがどうしてもある(こういうとき、わたしって業の深いアイドルオタクだなと悲しくなる)。でもまみりさんは、その先のステージを見せてくれた人たちで、完成されたステージでこんなに心動かされることはほんとうにものすごいことで、ひとことにまとめてしまいたくはないんだけど、長年の研鑽の賜物なんだろうとしか言えず、十数年積み上げてきた結果が永遠にうしなわれてしまうことがわたしのような外野でさえ身を裂かれるように悲しく思う。

解散してしまったアイドルが一日限定で復活するようなステージを見たとき、わたしはほんとうにうれしかったしアイドルみんなこんなかんじでまたやってほしいなって思ってしまうんだけど、栞を挟んでいつかここからなんてさそう都合良くいってはくれないみたいだ、って歌われるように、まみりさんの完成されたパフォーマンスは気が遠くなるほどの日々の積み重ねの上にあって、替えはけっしてきかないし、そう簡単に取り戻せるものではないんだろう。でもだからこそ、間に合って目にすることができたことを心からしあわせに思います。


もうこんなん二度とない!ってくらいいいライブだった!3/18も楽しみにしています!

OS1ゼリー

ぐりという名前です。アイドルオタクの気持ちブログ。

0コメント

  • 1000 / 1000