2020年はとにかく最悪としか言えない年で、毎日なにかしらに怒るか悲しむかをしていたような気がする。きっとなにかしらの心配ごとがだれしものなかに沈殿するようにのこり続けていて、「最悪」としか言えないトピックが一人ひとりにあったのではないかと思う。わたしは推していたアイドルが辞めた。死ぬまで応援していたい、と思った推しが辞めたのはこれで二度めで、もうなにもかもおわりだと思った。
「辞めた」の時点が最悪であってくれればどれだけよかったことか、と思ってしまうほどには、それからの毎日にそれまで大切に育ててきた夢は壊されつづけた。アイドルを応援することが消費であってはならない、勝手な理想を押しつけた偶像にしてはいけない、アイドルは人間じゃないなんてことはない、と自分では理解したつもりでいても、いざ直面するとなると、うつくしい物語の枠ぐみのなかにおさまってくれないことに怒る自分がいて、そのことに悲しくなった。推しを失うことは「推しを失う」というひとつだけではなく、そのグループのかたちが失われることでもあり、今まで信じてきたものもすべて崩れて、幸福を願える「いいファン」の自分もグチャグチャになって死んだ。ひとつがなくなることはひとつを失うことではけっしてない。
思いかえすと、この夏は心身ともに疲弊しきっていたのか毎日熱中症のような症状が出ていて、外に出るときはOS-1ゼリーを数本持たないと心配でたまらなかった。時期も時期なのでことあるごとに体温を計っていた。毎日不安だった。怒ることはものすごくエネルギーを使うし疲れることなんだな、ということを、知りたくなかったなと今さら思う。
ある日Twitterでひとつのアカウントをフォローした。ひょんなことからフォローしはじめたそのアカウントが、芸人さんのアカウントだったんだということをきちんと認識したのはだいぶ経ってからのことだった。
「お笑い」という文化にまったくふれてこなかったように思う。小学校高学年くらいにエンタの神様が大流行りしていて、覚えているお笑い番組の記憶はそのくらいだ。当時、大晦日は「紅白よりもガキ使を見るほうがイケてる」というような風潮が、だれが口にするわけでもなくなんとなくあったため親にお願いしてみたことが一度だけあったが、却下されて終わった。わたしも頼んだのはその一回きりで、そのあとはそんなことすっかり忘れていったし、中学に上がると、ニコニコ動画やYouTubeをはじめとしてネット文化にどっぷりはまり、まんがアニメオタクが加速していったわたしはバラエティ番組に興味をもつことはあまりなくなった。家族がテレビを観るときに、タレントさんや番組への否定をずっと口にしているのを耳にするのがいやで、テレビを観ること自体もすくなくなっていった。
今年は軒並みアイドル現場(に限らずすべての現場がではあるが)がなくなってしまい、現場に飢えたわたしは興味本位でその偶然フォローしていた芸人さんが出演する現場に足をはこんでみた。ここで、「はじめてのお笑い現場で腹をかかえて笑った」「推しを失った心をお笑いが救ってくれた」とかなっていればそんなすばらしいことはないと思うけど、人生はそうはうまくはできていないのでそうはならなかった。ただ、ここからすこしずつお笑いの現場に足を運ぶようになりはじめるので、転換のひとつであることはまちがいないと思う。
ほんとうに右も左もわからなかったので、昔からお笑いが好きな友人にいろいろたくさん教えてもらった(ありがとうございました)。最初に教えてもらったことのふたつが衝撃的で、ははあなるほどと感銘をうけたのでここにのこしておきます。
漫才とコントという種類があることはわかるけど、舞台上で起こっているそれがどっちなのかよく分からない!
ということを尋ねると、「ふたり」という組み合わせが好きなわたしにわかりやすいように、(とてもおおざっぱに言うと)ふたりが横並びで客席のほうを向いていたら漫才で、ふたりが向かいあわせでいたらコントだよ、ということを教えてもらい、わたしはそれがしっくり来てものすごく腑に落ちたし、今までの世界がばりばり割れて、そこからあたらしい世界が見えたような瞬間だった。
(ほかにも、センターマイクをはさんでふたりでいたら漫才とか、センターマイク以外の道具を使っていたらコントだとか、わかりやすいたとえをたくさん教えてもらった)
●現場全通がかなりむずかしそう
地下のアイドルオタクは「現場にできるだけ行く」を実行していると現場をほぼ全通していることがざらにあり、そういう価値観をもってオタクをしている人が非常に多い、となんとなく思っている。その価値観のままで吉本興業の芸人さんのスケジュールを見ると、ほぼ毎日ぎゅうぎゅうに詰まっている劇場の出番や1日3公演ある寄席、さらにはルミネの平日公演は基本的に12時/14時/16時開演と社会人泣かせの時間のため、お笑いのオタクの人はものすごく大変そうだ、ということを友人に話したら、お笑いのオタクの人はそもそも「全通」という概念があまりないかもしれない、と教えてもらい目から鱗だった。
1日3公演のなかでおなじネタをやる人も多いし、披露できるネタも限られていれば披露できるようなネタを作ることにはものすごく時間がかかる。観客側からしても、「何度見ても飽きないネタ」というのは限られている。アイドルは幾度もパフォーマンスを重ねることで楽曲は磨かれていくが、お笑いのネタは何度も何度も披露されて手の内がわかってしまうと、賞味期限切れのような現象が起こってしまうこともある、というような説明をうけ、ははあなるほどなあと納得した。その世界にはその世界の文脈がある。
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お笑いの現場に足を運びはじめてすぐに、これは自分が一定以上の社会的地位にいる自意識がある人じゃないと楽しめないコンテンツなんじゃないか?とめちゃくちゃ思った。
わたしはお笑いにおけるスタンダードな「笑われる側」の要素ばかりで構成された人間で、ネタのなかで誰かが笑われるたびに、その事実をあらためて突きつけられまくることとなった。ブスで、デブで、オタクで、人生経験が不十分で、仕事はできなくて、グズでのろまで、学歴もスキルもなくて、低所得で、女で、特別なものはなにももっていない、といった具合に。今までの人生で削りに削られてきた自己肯定感をきちんと再獲得しないかぎりは、全てを心からたのしめることはないような気がした。
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