とにかくめちゃくちゃいい日だったなとしか言えない。わたしは二丁目さんのファンで、この日も二丁目さんを観るために足を運んでこの日の二丁目さんのステージにこれでもかというくらい感動したけど、ここまでやられているのはこのライブの流れがあったからに他ならないなと思う。
ミシェルのときに、ステージで踊るアイドルがいて、ステージに立つアイドルがそのときのためだけの照明に照らされてて、ステージの上に好きな女の子がいるひとたちがその子を指さしたりキンブレを光らせたりっていう、いわゆる「いつもの光景」を超ひさびさに肌で感じて泣きそうになった。「これから認めてもらえるようにがんばります」って声を震わせて挨拶したニルクライ新加入の子の姿にも、それを抱きしめにいっていたいぶちゃんの姿にもめちゃくちゃもらい泣きしてしまったし、あたらしい門出の日のニルクライへの拍手がやまない時間にたいして、ほんとうにこれでしかないよなあと思った。
いまアイドルをはじめることを選択する子たちが、続けることを選択する子たちが報われなきゃ全部うそだよなと思ってしまうし、続けないことを選択した子も、続けることを選択できなかった子もどうか絶対に幸せになってくれとおもう。
この流れがあってからの好きな人たちのステージがあったからそれは感動してしまうよなあ、それもほんとうに良いステージだった。タイテが発表されたときに、お披露目は人生で一度しかないのにトリじゃないなんて特別にあつかわれないなんてふざけてんのかと勝手にひとりで怒ってしまっていた(し、今でもそれは思う)けどわたしは結局こうやって感動してしまっていて、そう思う人が多かったらいいなあと思ったりする、特にアイドル側がそう思ってくれていたらいい。いまの二丁目さんはかたちが変わったとしても続けていくことと続いていくことの象徴と証明みたいな姿だから、それをさいごに見てああ~、となってくれていたらといいなということを思ったりした。
ミシェルを見るたび体幹の強さがほかのグループとレベルが違うなと、それも全員がそうなのでひたすら感服する。レーレちゃんは友だちの好きな女の子だからというのもあっていつも目で追ってしまうけど、ダンスひとつひとつが「ここに入ってほしい」ってポイントに全部ど真ん中ではめてくる塚田僚一さん状態(とわたしは呼んでいる)に突入しててめちゃくちゃかっこよかった。タマネちゃんはつくづくほんとうに良いしあのパフォーマンスのかっこよさでおさげっていうのにキュン。わたしのまわりがピンクいろのキンブレを持っている人が多くて、ユブネちゃんのパートになるたびいっせいに上がるのにもキュンとした。オタクってかわいい。ユブネちゃんは上手側の人なんだろうか。
ニルクライは発足のライブのときにも観にいっていて、いぶちゃんはそのときからパフォーマーとしてすごく完成されていたように見えたけど、ひさしぶりに見たらいい意味でアイドルになったなあと思えてそれがすてきだった、いぶちゃんの客席を見やる目線や表情で、たくさんの人との相互関係を築いてきているんだろうなあというのが分かってそれに泣いちゃいそうだった、アイドルオタクだからアイドルとオタクが通じ合ったと思える光景が好きで泣いてしまう。小林潤さんは「覚悟完了」の姿で凄すぎた。ステージで命を燃やし切ろうとしているように見えるアイドルをひさしぶりに見た。新加入メンバーふたりとも堂々としていてすばらしいなあと思ったし、きちんとアクビ顔なのに感動してしまった、自分の気持ちに余裕があったらほんとうは小笠原唯さんに並びにいきたかった、すてきだったしなによりわたしはハーフツインに弱すぎる(持病)。新曲のまぶしさというのかな、未来が開けるような感覚の音ひとつひとつに、田中さ~んという気持ちになった。
ニルクライが最初のライブで黒い羽をまとって出てきたときにわたしは呪縛だと思ってしまったけど、この日はそうは思わなかった。この黒い羽にいろんな人がいろんなことを思うんだろう。ベルハーからはじまるこの黒い衣装は制服のようなデザインでそれが群像劇の様相を増しているように見えてわたしはそれが大好きなんだけど、あたらしいニルクライのあたらしい衣装は制服というよりも個々が際立っている戦闘服のように見えてすごくすてきだった。小林潤さんがあまりにもファイターで、超いい衣装。
二丁目さんがはじまるとうしろに下がっていたアクビのオタクの人が多かった(半分くらいは気遣いの気持ちと思う)のを見て、なんだか今日をいちばん楽しめる立場で申し訳ないなという気持ちになってしまった。
はじまってからすぐ、紅さんのひとつひとつの所作がきれいで丁寧でそれから目をはなせなくなってしまった。ライブが終わってすぐに友だちに日がちなんか踊りがうまくなってるすごい、と話したけどその表現が全然しっくりきていないんだけど、なんて表現していいかもまったくわからない。動作とか動きではなく「所作」だったんだよな。パラレルヤワールドでとくにそう思いました。なんであの所作としか表現できない指先のひとつひとつを見ていると神聖なものを見る気持ちに、泣いちゃいそうな気持ちになるんだろうか。パフォーマンス(とそれを通して見た客席)へのいつくしみだと思うからなんだろうか。わたしはステージに立つアイドルを見て神さまだと思ってしまうことが多いけど、紅さんは巫女的だなあと、神託をうける人でありつたえる人を見ているような気持ちになることが多い。
所作が丁寧だ、と思えることについて、それはどういうことなんだろうって今日ずっとぼんやり考えていた。これまったく答えは出なかったんだけど、アニメのワンシーンのコマ数を多くすること、を連想していて、「コマ数を多くすること」を動作にあてはめるとどうなるんだろうと考えたら、ひとつひとつの動きとか、動きになる前の過程をすべて意識的におこなうことなのかなあとなんとなく思う。書いていてうまく説明できてないなと思うし、ただただ感覚的なものなんだけど。ステージに立つことのない側からすると、ステージでパフォーマンスをしているときってもう無意識に近い部分が多いんじゃないかと勝手に思っているけど、そのなかでも紅さんは意識的であることをすごく意識しているんじゃないかなとほんとうになんとなく思った。
ヒーイズ〜ゼロ〜シーユー〜バグってすごい流れだな。ゼロでは筆さんが真ん中(概念)に、その次にシーユーでは紅さんが真ん中(概念)にいて、そのふたりが最後のサビを叫ぶように歌うバグにいく流れは、これがうちのあたらしく入った人たちですからと見せつけるようにも見えたし、こうなっていくんだ、こうなっていけるんだから大丈夫だよというエールみたいにも感じていた。ヒーイズがすごい良くて、終わったあと拍手ができてうれしかった。立ち上がって拍手をしたいようなパフォーマンスだったから。三人がマイクを置いてミキさんがひとり歌うシーン、床に全身を這いつくばらせて金髪をまとわせながら踊るぺいさんに上手側のカメラマンさんとセンターのカメラマンさんが一斉にステージ間近まで押し寄せていて、それが視線の可視化みたいに思えてゾクゾクした。見ているかぎりではカメラ2台とも押し寄せるようなシーンここのぺいさんにしかなかったと思う。映像で見たらここの紅さんがハッとするような切実さで、生で見てみたいなと思った(上手端に行きがちなのでここのシーンはほとんどの場合ミキさんがかぶっていて見えない、のでぺいさんばかり見ている)。ミキさんがひとり歌ってそのまわりを三人が手をつないでひざまずいているところ、紅さんがすごく真剣な顔で(いやいつも真剣な顔ではあるんですがとくに)ミキさんを見上げていてそれをすごく覚えている。
ミキさんと筆さんが歌ってぺいさんと紅さんが踊る二ばんの胸を波打たせる振りで、紅さんの衣装のベルトのうごきが際立ってお~と思った。あたらしい衣装の各々の揺らぎに注目してほしいということをぺいさんは話していて、ミキさんはマントみたいな裾、ぺいさんはパンツのフリル、筆さんはおおきいスカーフ(という呼びかたでいいのかな)、紅さんはたくさんのベルトの部分なのかなと勝手に思っているけど、布が多い衣装が好きすぎるわたしはこの衣装ではじめてのライブ映像が見られるGAY1配信の日、ミキさんちょっと紅さんに衣装の布分けてくれないかなということで頭がいっぱいになってしまって正直ライブにあんまり集中できなかった(最悪)。でも生で見てお~ってなったのでよかった。ゼロとかでもたぶんお~となったのかな、そのときにこのベルトがたくさん揺らぐさまは苦しみを表現する振りをいちばん際立たせるのかもしれない、となんとなく感じてそれにはちょっとギュッと苦しくなってしまった。前に、紅さんがステージ上でお水を飲むときに、客席に完全に背を向けて見えないようにして飲む姿にこの人のアイドルの矜持を見た気がしてそれがとても好きだったんだけど、ヒーイズで置いていたマイクを拾って逆側の手に持ち変えるとき背中側をとおして持ち変えていた紅さんを見て、お水のときとおなじような気持ちになった。
ヒーイズがすごく良くてお~となっていたら続くゼロがおそろしくよかった。すごい人たちだな~。ひとり膝をついてうたうミキさんをうつむく三人が取り囲んで踊るところ、照明がほとんど落とされて暗闇みたいになっていたと記憶してて、やっぱりあそこは亡霊の表現なんだろうか、というふうに思った。さいごの筆さんパートに切り替わる瞬間に、暗闇に一瞬に照明がババッとさしてうしろのVJがまぶしいくらいに光の流線が落ちてきたこと、あの光景絶対わすれね~、と思った。そこで見ている瞬間は流星群がおちてきているみたいだと思っていたけど、映像で見たら光がのぼっていくように見えた。あの光景を背負えるどころか、自分の背景にしていた筆さんはやはり0番に立つ人としての力が強いな、と思った。ゼロは紅さんの歌唱がものすごくよくて思わずいつもケチャなんかしないところでしてしまった。こういう気持ちの動きもひさしぶりだったからなんだかそれに泣きそうだった。割り算を覚えていくのかなのところだった。ゼロは被せの音源がほかの曲と比べてもとくによく聴こえるような気がして、いろんな時間が倒錯しているような感覚になるというか、自分がどこに立っているのかわからなくなる。
シーユーはわたしが全然振り覚えてなくて愕然として時間の流れをめちゃくちゃに感じた。がんばれ~、という気持ちでサイリウムを光らせるのかなと思っていたけど全然そんなことなくて、ひとりでうたう紅さんが超かっこよくて成長スピード~!になった。人の成長が目の前で行われている。
推していた人がいなくなったこの現場でわたしが死にぞこなった意味ってなんなんだろう、と考えてしまうことがいまだによくあって、青野くんに触りたいから死にたいをドラマ化の報を聞いてからずっと読み返しているんだけど(ドラマ化おめでとうございます)、「先に死ぬのはずるい、生き残ったほうより価値が高く見える」というセリフを読んであーわたしは自分がめちゃくちゃみっともない気がしてしまうのってこういうことなのかなあってこととかも考えたりした。でも、三原色カタルシスで、手でつくったファインダーをのぞきこんだあとの「せめてせめてこんな時代でこの風景だけは愛と呼ばせて」ですこし顔を歪ませて泣きそうに見えた紅さんを見た瞬間にこのためだったんだなーと思った。このシーンで、この詞で涙を流せるアイドルを見続けたいじゃんそれは、と思う。こちらがぐちゃぐちゃ考えてしまっていることとか時間なんて全部無駄にしてくれ。自分の手でつくったファインダーごしにステージを見ていたら、ああアイドルを推すってこういうことだったよなーとめちゃくちゃ思えてよかった。なんていい振りつけなんだ。
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2021.05.25 13:51
2021.05.25 09:59