ことしの6月30日の夜のライブの特典会で、ミキさんは「今日なんでそっ閉じを歌ったのか考えてみて」と投げかけてくれたけど、わたしは考えても考えても皆目見当がつかなかった。帰り道でいつもいっしょにいてくれる友だちにそのことを話したら、しばらく考えてから、白ちゃんがやめた日だからじゃない、とひとつの仮定を導きだしてくれた。わたしはミキさんに答えを聞くことはしなかったし、ミキさんも正解を話すことはなかったけどきっとそうだったんだと思う。わたしもその子も白鳥さん推しで、わたしがその特典会の内容をその子と共有することも向こうはおそらくわかっていただろうし、その日のそっ閉じは4人ともいつも以上に熱がこもっていたように見えたしミキさんはどこか泣いてしまいそうに見えた。1年前のこの日はもう1年なんだね、早いね、とか話していた気がするんだけど、わたしはたった2年で、もうこれですべて終わりだ、と絶望した日の日付すら忘れてしまうらしい。ミキさんはほんとうに情に厚い人だなと思うしわたしは薄情な人間だ。
今度の9月13日(というか今日)でわたしがはじめて二丁目の魁カミングアウトを観に行った日から5年経つらしい。わたしが過去に何年も続けていちばんに好きでいたもののなかでいちばん長いのってももクロで、でも、現場に通い出したのは2013年の春で、2018年の1月に有安さんが辞めてから行かなくなったことを思うと、気づけばその年月を越してしまっているみたいだ。怖すぎる。そして、あと1年も経てばわたしが前体制の二丁目の魁カミングアウトを見てきた月日よりいまの体制の二丁目の魁カミングアウトを見てきた月日のほうが長くなる。そう考えるとなんだか不思議な気分で、それが早いのか遅いのかもいまいちわからなくて、1年後の今ごろは声が出せるようになっているのかなあとかそういうことばかり考えてしまう。
記憶、ということばを目にしたり耳にしたりする機会が増えたような気がする。そう感じるたびにどこかうしろめたく思うのはわたしが薄情な人間だからで、みんなが大切に思うものをわたしは捨ててしまいたいと思うことほうが多かった2年間ちょっとだったし、捨てたくても捨てられないものだ、とどこか安心していたような気もするけれど、それも気づかないうちに忘れてしまうこともわかった。当時のわたしがどうか一生忘れませんように、といつかの自分のために書きつらねていた昔の文章は見返すことができないし、かといって消すこともできないし、それと似たようなカテゴリの気持ちで、わたしはGAY2とGAY3とGAY4をいまだに聴くことができない。
いつか日がちがすごく心配してくれた日の特典会で、はじめて白鳥さんの名前を出して(この人はわたしとおなじ呼びかたをする人なんだなあ、と思った)忘れなくていいんだよ、と言ってくれたけれど、当のわたしは忘れられたらいいのにと思っていて、そのことが申し訳なかった。かつて自分がなくしたくないと大切にしていたものを捨ててしまいたいと思ってしまうことほど悲しいことはないと思う。
2022年はまだのこり3ヶ月あるけれど、いい年だったなあと思う。ショッピングモールでのライブ、ももクロ大箱ライブの外周ステージの出演、TIF、アットジャムのストロベリーステージ、わたしが勝手に遺恨を残していたものが次々と叶っていった年で、呪いから解かれていったような感覚だった。アットジャムの翌日は生まれてはじめて、これ、オタク上がれるんじゃないか・・・という気持ちにすらなった(上がれてません)。
わたしには、ここでオタクをやめられていたら今こんなにも苦しい思いをせずにすんだかもしれない、というタイミングがいくつかあって、それでもやめられなかった自分の未練がましさを恥ずかしく思いつづけているけど、上がり、って未練を残したままではできないのかもしれないな、とここにきてようやく思う。どうしてきれいに終わってくれなかったんだ、と思ってしまったからこそ、叶わなかった未練があったからこそ、いまこうして追いかけ続けられていて日がちにも出会うことができたんだなと思うと、正しいルートだったのかどうかは一生わからないままだけど、「僕の中に大嫌いな僕がいたとしてそれこそが君に出会えた理由なんだとしたら」なんだなあと思うし、そっ閉じで日がちに授けられた詞を、はじめて目にしたときから寸分違わず自分の気持ちのように思う。それまでの時間を「過程」とあらわしてくれたことにわたしは救われ続けていく。ミキさんはそれまでやいまの自分の思想を歌詞におこしているかもしれないけど、わたしはそれを予言みたいだ、と感じることがたくさんある。
9月13日が特別な日付だった理由の半分は白鳥さんを好きになった日だったからで、その効力をうしなってしまった今わたしはたぶん他の人よりもこの日に対する感慨が薄い。それでもひとつの区切りとしてこの日を大切にしていこうと思うし、来年もまたこうして振り返って噛みしめられていたらいい。思い出せなくなってしまった記憶は、いまの自分の手で汚されないように奥のほうに蓋をしてしまいこんでいるんだと、そう都合良く解釈して今日も生きる。
iPhoneの写真フォルダもむかしのほうが消えてしまったので、こういうときに貼れるそれらしい写真もなくなってしまった。これはフォルダのせめてもの底のほうにあったなにも関係ないお寿司です。
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